とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第1章 SAY YES (1)

愛には愛で感じ合おうよ ガラスケースに並ばないように

何度も言うよ 残さず言うよ 君が溢れてる

 

 津波と漣を隔てる差異は、岸辺に打ち寄せる海水の量の差異だけではない。言うまでもなく、それは質的な差異でもある。憎しみと愛を隔てる差異もまた、しかり。その隔たりの渚には、強度と運動という“まぐわい”の多様な、あまりに多様な表情がある。

 

  僕の、“かの女”への執着は、果たして愛だったのか。夕暮れの漣に漂う愛慕という比喩にはおさまりきらない、独特な強度の訪れを僕の心が僕の心そのものに直に感じていたことは、おそらく間違いないだろう。

  中学2年生、14歳。誰もが強度によって激しく突き動かされる人生のその季節に、僕が初めて黄昏時の小さな公園で、その強度によっていわゆる「告白」という儀式の担い手として祭り上げられたのは、金木犀がほのかに香る19919月のことだった。放課後にこの公園を訪れてから、どのくらいの時が流れただろうか。公園に佇む男女の影がすっかり伸び切って消えかかる頃に、ようやく僕の中の、その渦巻く強度は、言葉というガラスケースにおさまってくれた。「付き合って。」僕がかの女に差し出したそのガラスケースは、あまりに脆く儚い代物ではあった。しかしそれでも僕はあの凄まじい威力で心を迫る強度からほんの束の間解放され、心が幾ばくかの安らぎを甘受していた。そんな僕の長い長い強度とのあらがいとは裏腹に、かの女の応えは一瞬だった。「少し時間をください。」僕のガラスケースは、破られることも、開けられることもなく、そのままの状態で持ち帰られてしまうことになった。

  ウラジミールからの応答は、エスドラゴンのゴドーに対する期待にいつでもまっすぐに向けられているので、というよりも“ともに”ゴドーへと差し向けられた眼差しが共振し合うので、エスドラゴンは永遠の中でゴドーを待ち続けることができるのだろう。この時の僕には、ウラジミールからの応答がうまく聞き取れなかった。少なくともウラジミールと“ともに”眼差しをまみえることはできていなかった。「今度は何をするのかな?」僕のその問い掛けだけが虚しくこだまし続け、ガラスケースに収まりきれない何ものかが、僕の心の中で増殖していくのを感じた。

 

  1991916日月曜日。そのドラマの最終回を、僕は見ていた。やがて歴史がトレンディドラマの絶頂期と名付けることとなる、「101回目のプロポーズ」というそのドラマの中で、ウェディングドレスを身にまとった浅野温子演じる矢吹薫は、夜の東京の街を懸命に走っていた。土木工事を終え地べたに座り込んだ、武田鉄矢演じる星野達郎のもとへ。あのイントロが響く。強度そのものとしか表現し得ない、あの音たちの塊。申し合わせるまでもなく、運命に導かれるようにどこからともなく集い来る音たちの群れ。僕たちの心に直球でダイブしてくる、その音の群れは、強度そのものを僕たちにも感覚可能なのだと錯覚させてくれるほどのアクチュアリティをもっていた。その幻想的なダイブの余韻を追いかけるように、こちらからあちらへ、あちらからこちらへ、いくつもの音階を激しく往来するピアノの音色が続く。そして、ASKA。その人の声が穏やかにそして深く問いかける。

 

「余計なものなどないよね」

 

  ガラスケースをはみ出るもの。言葉を超えていくもの。東京の都市文明が「余計なもの」と見なしたがる、夜の下水工事現場の地面に胡坐をかいた達郎の独特の土臭さが、ウェディングドレス姿の薫が背負ったキリスト教の教会と邂逅する。達郎と薫の結ぼれが象徴するもの。それは、この「言葉を超えたもの」と、「言葉」との邂逅そのものである。あるいは、都市空間から締め出された土着的な風合いの残余と、それまでは俄か西洋的なものに過ぎなかったガラスケースや言葉の中にぽっかりと空いた欠如との本当の遭遇のはじまりと言い換えてもよい。「僕は死にません!」達郎が迫りくるトラックを前に叫ぶように、ガラスケースをはみ出してしまう「余計なもの」は決して死なない。全体性なるものを仮構するならば、ガラスケースの外に「余計」として除去されたものは、「穴」であり、「傷」である。この「穴」や「傷」の内包物は決して死なない。このことを深く眼差して、ASKAは「余計なものなどないよね」と問いかける。この問いかけに応じて、画面の中で二人の男女が再び出会い直す。この「傷」と「言葉」との邂逅。いったいこの邂逅は、ほんとうのところ僕たちに何を見せてくれていたのだろうか。