とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第1章 SAY YES (2)

 建設会社の万年係長である星野達郎は99回のお見合いにことごとく失敗し続けてきた。達郎は深く傷ついていた。見た目も悪い、仕事も冴えない自分自身を卑下していた。それ以上に達郎を苦しめていたのはおそらく自身の誠実さという仮面をつけた臆病さなのだろう。「今まで、信号機どおり生きてきました。信号見て、赤だったら絶対渡りませんでした。青だったら、臆病だから俺、ビクビク渡ってました。」勤勉さ。実直さ。それゆえの柔弱さ。信号機に象徴される都市空間の埒内に封じ込まれた男たちの去勢。達郎の傷は、それとも知らされずいつの間にか抜き取られた魂という抑圧の傷だった。

 そんな達郎が結婚を断念しかけた頃に現れたのが矢吹薫、その美しい女性だった。薫もまた深い傷を負っていた。3年前、婚約者との結婚式当日、その婚約者が交通事故で急逝したのだ。「僕は誓うよ。50年後の君を今と変わらず愛している。」婚約者のプロポーズの言葉に託された愛の永遠性は、ガラスケースのような脆さを抱えていた。いやむしろ、そもそもの初めから永遠なるものはガラスケースの中には収まりきらないという永遠性に内在する本来的な在り方が、愛の永遠を誓うべきまさにその日に露呈してしまったのだ。不意なる「傷」の訪れ。どんなに美しく劇的な言葉を尽くしても、決して到達できない永遠なる愛の不可能性に、薫は図らずも直面させられてしまった。

 達郎は言う。「人をさ、好きになるってことはさ、愛する人と一緒に、自分もこう…変わろうと祈ることなんじゃないかな。」万年係長だった達郎は、矢吹薫という深い傷を負った美しい女性との交流に触発され、やがて一念奮起し司法試験を目指すべく会社に辞表を提出し万年サラリーマンを脱する。必死の勉強と、神社へのお百度参り。生成変化するものとの出会い。抑圧されたものの回帰。そして、反復という名の奇跡。懸命な努力虚しく司法試験に失敗し、同時に薫との成就も叶わないと悟った達郎のもとへ、ウェディングドレス姿の薫が走り来る。そして、あの邂逅である。

 

 この邂逅をブラウン管を通して目の当たりにすることで、あるいはまたテレビに誂えられた簡素なモノラルのスピーカーを通してながら、その圧倒的な浸透力を持つASKAの声に「余計なものなどないよね」と問いかけられることによって、僕はかの女への情熱的な思慕を募らせていく。かの女との恋愛成就の不可能性を感じ取れば取るほどに、ますますいっそう純愛に目覚めるかのように。お百度参りが、願いの不可能性を看取するほどに、ますますいっそう、その信心の篤さを証明してしまうかのように。手紙や電話、待ち伏せなど、当時の僕に与えられていた、可能な限りの通路を通して、かの女に触発されて溢れ来る思いをかの女のもとへと直接的に表明し続けた。あの時あの公園でかの女の口から「少し時間をください」という言葉で生まれ、そして「やっぱり、ごめんなさい」という言葉で、「余計なもの」として締め出された何かが、こんなふうに僕の中で出口を探し回っていた。結局のところ、成就不可能性に動機づけられたこれら欲望や願望の塊こそが、僕の中の最大のリアリティの在り処となっていたのだ。

 

 成就の手前にとどまり続けることで、抗い戯れることのできる何かがある。成就が遂げられた瞬間に、その臨界点で、質的な差異をもたらすものがある。ポピュラー・ミュージックという志向を持った波に乗り、津波のような大衆性に辿り着いたASKAASKAの楽曲の大衆化の極みが、テレビドラマによって、まさにドラマティックに到来したのは決して偶然ではない。それは、ASKAというミュージシャンの身体に内在する、ある性質に深く関与している。その性質は「剣道」によって涵養されたものである。その独特の身体性は、「SAY YES」を収録した「TREE」というアルバムのブックレットのASKA自身による散文詩に見事に表現されている。

  

かけひき

 

じりじりと 相手が詰め寄る

交わる竹刀の先の距離が変わらないように

じりじりと 僕はひく

きっと 相手は優位に立ったと思ってる

頭の良い奴なら ここでは来ない

もっと詰め寄る

もっと来い もっと来い

心の中でつぶやく

 

僕は場外線ぎりぎりまで詰め寄らせる

相手の呼吸に合わせたら軽く一度沈んでやる

頭の良い奴なら必ずここで身構える

反撃だと思って身構える

しかしここでは行かない

 

もう一度剣先の距離を確かめたら

もう一度沈み込む

頭の良い奴ならここでは動かない

追い詰められたネズミの二回目のフェイントだと思う

そしてそいつは三回目を待つ

 

この時 一枚の絵のように見えているであろう僕らは

雲がゆっくり流れるように息を数え合う

相手は待っている

そして剣先が少しだけ深く交わったその時

相手のリズムに合わせて三回目をする

 

上手い奴なら沈み込むまで待たない

沈もうとするその時に来る

そして僕は相手の竹刀が綿ぼこりにさえ感じる動作をしたとき

僕の全身はエネルギーの化身となり

相手の胴を斬る

 

もっと頭の良い奴なら打ってこないよって?

ちがうよ

誘うんだよ

この瞳で嘘をついて

 

 

CHAGE&ASKA TREE」 歌詞ブックレットより引用