とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第1章 SAY YES (4)

  こうした社会学的な主題は、次のように言い換えることもできる。この「101回目のプロポーズ」というドラマの大ヒットは、1991年当時の人々の中の生成変化するものが、「虚構」というパターン(過去)にアイロニカルに締め出され続けることが常態化した「虚構の時代」の末期に、もう一度「理想」というパターン(過去)を媒介にして、生成変化するものを「現在」という場に取り戻す運動の一つであった、と。まさに、「理想」を取り戻すこの運動こそが、ASKAの「かけひき」に描かれる剣道の立ち合いにも通じる真剣勝負そのものである。そして、この「現在」における運動や真剣勝負こそ、「理想」という言葉がそもそも意味しているように、「未来」における現実化可能性をありありと実感させてくれるものでもある。
  しかし、そうだとすれば、ここで一つの疑問が生じてくる。この「理想」を取り戻す運動や、「理想」をめぐる真剣勝負が、この時代の人々の心を強く捉えたのだとすれば、その担い手がCHAGE&ASKAというミュージシャンである必然性はどこにあったのか、という疑問である。もっと言えば、「理想の時代」の全盛期を華々しく彩った「演歌」や「フォークソング」、「グループサウンズ」のミュージシャンたちではなく、なぜCHAGE&ASKAだったのか、という疑問である。実際のところ、「101回目のプロポーズ」と同時期の1990年代初頭のテレビドラマには、小田和正浜田省吾財津和夫中島みゆきなど「理想の時代」に活躍したミュージシャンたちが起用される動きも多くあった。また、「101回目のプロポーズ」で星野達郎の配役が、海援隊武田鉄矢であったこともまたこの動きの現れの一つと見てよいだろう。さらに言えば、CHAGE&ASKAが「チャゲ&飛鳥」としてデビューしたのも、1979年という「理想の時代」から「虚構の時代」への移行期であり、これらのことからは「101回目のプロポーズ」の、あるいは「SAY YES」の大ヒットは、「あの理想を取り戻せ!」という復古的な人々の心の動きと連動した、「理想の時代」のミュージシャンたちの反復的回帰の運動とみなすこともできる。
  しかし、である。これらの現象に、もう少し繊細なセンサーを当ててみると、また異なる様相が姿を現わす。小田和正財津和夫は1970年代に大きく活躍したミュージシャンであり、それぞれ70年代には「オフコース」や「チューリップ」といったグループで活動していたが、90年代にはソロミュージシャンとしての活動が中心となっていたという差異はあれど、音楽的な一貫性はある程度保たれている。例えば、ドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌としてヒットした小田和正の「ラブストーリーは突然に」と、オフコース時代のヒット曲「さよなら」とを比較して、聴き手に与える総体的な印象にそれほど大きな落差は感じられない。ところが、1979年にリリースされた「チャゲ&飛鳥」のデビュー曲「ひとり咲き」と「SAY YES」とを聴き比べてみると、その聴き手に与える印象の落差は、小田和正のそれとは比べものにならないほど大きい。「ひとり咲き」と「SAY YES」とは全く異なるジャンルの楽曲という印象を受ける。「チャゲ&飛鳥」は、「CHAGE&ASKA」として反復的な大衆化を遂げたとき、重大なメタモルフォーゼを起こしているのだ。つまり、「101回目のプロポーズ」の、あるいは「SAY YES」の爆発的な大ヒットをもたらした要因の中には、「あの理想を取り戻せ!」という以上の「何か」があった。「チャゲ&飛鳥」が「CHAGEASKA」として大衆の前に大きく回帰してきたのは、「あの理想」という復古主義的な反復という意味付けには回収しきれない「何か」があったのだ。なぜなら、この頃既に「CHAGEASKA」は「理想の時代」の「あの理想」の体現者としての「チャゲ&飛鳥」から、大きな変化を遂げていたからだ。ここに、小田和正財津和夫の例とは、微妙ながら極めて重要な差異がある。

  では、その「何か」とは一体何だろうか。この謎を解くために、まずは「チャゲ&飛鳥」のデビューという出来事の社会学的な意味を、もう少し詳細に検討しておく必要がある。「チャゲ&飛鳥」のデビュー曲「ひとり咲き」の持つ楽曲的特徴は、当時「フォーク演歌」、「演歌調フォークソング」などと評されることが多かった。1979年という「虚構の時代」の始まりの時期にありながら、「理想の時代」の底流で蠢き「夢の時代」に開花した「演歌(艶歌)」という「過去」のジャンルと、同じく熱い「夢の時代」の後期を盛り立てた「フォークソング」という「過去」のジャンルとの融合的な残滓を大きく留めていた楽曲で「チャゲ&飛鳥」は大衆の前に生まれ出たのだ。
  見田(2006)は、「理想の時代」と「虚構の時代」との間に、「夢の時代」という移行期を想定している。見田によれば、1960年代から1975年頃までの高度経済成長期を「夢の時代」と命名した。戦後、「食」「衣」「住」が満たされ始めた日本人は、徐々に音楽という文化的な営みにも関心を寄せ始める。そうした人々の関心の受け皿は、西洋から直輸入された音楽だった。とりわけアメリカ由来の「ジャズ」や「ロカビリー」が「理想の時代」に相応しい文化的受け皿となり得たのは、まさに日米安保に象徴されるアメリカ主義という理想への強力な時代精神と連動している現象であった。一方、そうした米国という理想への憧憬の影で徐々に育ってきた文化的運動もある。それが、かつて明治時代の自由民権運動を活気付けたとされる「演歌(演説の歌)」という名称へとのちのち変転する宿命を持った「艶歌」というジャンルである。「艶歌」は「保守/革新」「ブルジョアジー/プロレタリアート」「堅気/任侠」「都会/田舎」といった様々な差異を蕩かす、いわゆる「盛り場」の暗がりから産声をあげた。輪島(2011)によれば、そもそも明治・大正期の「演歌師」が自由民権運動の壮士たちに起源を持つということ自体に疑義を唱える論者も多いとのことだが、ともかく盛り場生まれの「艶歌」がやがて自由民権運動の壮士の意匠を用いた「演歌」と名づけられることによって「夢の時代」の始まりを華々しく飾ったことが、ここでの文脈では重要である。
  一方、1960年代末からの、見田が「熱い夢の時代」と名付ける時期に、「演歌」の流れを汲みつつ、青年たちの鬱屈した精神の受け皿として「フォークソング」というジャンルが現れた。保守も革新も「理想」を追い求める中で徐々に現実化した既得権益の上でがんじがらめとなり身動きの取れない膠着状況が続く中、若者たちの「反体制」、「草の根」という現状打破の精神を歌いあげたのが「フォークソング」である。こうした激しい若者たちの闘争や運動がすっかり抑圧され切った後でも、「フォークソング」は井上陽水の「夢の中へ」に象徴されるように、人々をまさにやがて「虚構」へと変転を遂げる「夢」の世界へと誘い続けたのが「夢の時代」の斜陽、1970年代である。
  つまり、「チャゲ&飛鳥」というミュージシャンが、その後に「フォーク演歌」と呼称されることになる「ひとり咲き」という楽曲で、1979年「虚構の時代」の芽吹きのときに大衆の前に現出したのは、「虚構の時代」にありながら「理想の時代」や「夢の時代」の余韻をも響かせる担い手であったためである。場外線ぎりぎりに詰め寄らせ、幾度も身体を沈ませ、相手の攻撃を誘うよう「嘘」をつくASKAの「剣道」による身体性を考慮に入れてもっと大胆に言えば、「理想の時代」にも「夢の時代」にも「虚構の時代」にも収まりきらない、どこか「境界性」や「多様性」を帯びた姿で「エネルギーの化身」となり、1979年の大衆の「胴を斬」ったのが、「チャゲ&飛鳥」のデビューという出来事だったと言えよう。この点こそが重要なのである。
  ここにこそ、「あの理想を取り戻せ!」という復古主義的な反復とは異なる「何か」がある。つまり、「101回目のプロポーズ」というドラマとともに、1991年に大衆の前に返り咲く体現者が「ASKACHAGE&ASKA)」でなければならなかった必然性を決定づける要因は、この「境界性」や「多様性」にこそ存在するのだ。全てが「虚構」という味気ない作り事に変転していく時代的なムードの中で、中年のおじさんが「理想」を取り戻す純愛ドラマに、「余計なものなどないよね」と語りかけるのは、「理想」にも「夢」にも「虚構」にも、あるいは「演歌」にも「フォーク」にも「ポップス」にも「ロック」にも、決して回収し尽くされることのない「境界性」や「多様性」を身に纏ったASKACHAGEASKA)でなければならなかった。1991年にASKAが大衆に熱烈に呼び出されることになった必然性は、「あの理想を取り戻せ!」という復古的な運動のみならず、ASKAというミュージシャンに内在した身体性が、この「境界性」や「多様性」を宿していたからなのである。