とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第2章 YAH YAH YAH(3)

 近代においては、国家にせよ、社会にせよ、エンジニアリングの手捌きで、「歴史」を遡ってその正統性を事後的に周到にデザインする。その際、差異を統一的な名称に収める命名という操作は極めて重要な役割を果たしている。統一名の構成という操作は、ブリコラージュ的な現実の隠蔽なのである。ブリコラージュ的な現実とは、ある国家やある共同体が生じたのは、たまたま偶発的に生じた出来事であったというその現実のことである。「出雲」と「大和」とが「日本(ひのもと)」という統一的な名称に収められるとき、かつてはそれぞれバラバラの利害で動いておりスキャンダラスな闘争が繰り広げられていた現実を、本当のところ偶発的な要因で勝利したのかもしれないという実態を、両者の出遭いが本当はブリコラージュ的な偶有性に彩られていたという実情を、周到に隠蔽し、「日本(ひのもと)」の「歴史」の必然性を強調する。この「日本(ひのもと)」という命名とともに、「出雲」と「大和」の遭遇というブリコラージュ的な出来事は隠蔽されるのだ。

 グループ名も同じだ。「B’z」にせよ、「ゆず」にせよ、2人のメンバーのそれぞれがバラバラだった時代が過去にはあるが、統一的な名称に収められた途端に、それぞれバラバラだった「歴史」が、まるでこの統一のための必然であったかのように物語られていく。それは、両者の出遭いがブリコラージュ的な出来事であったことを巧みに隠蔽する機能を果たしている。ところが、「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」というグループの名称は違う。ブリコラージュ的な出遭いの現実を隠蔽しない。差異を差異そのままの姿で見せているのである。「チャゲ」と「飛鳥」が別々の来歴を持っている個別的な存在であることを、「チャゲ」と「飛鳥」の差異を、潔くその名称に留めている。この命名の独特の潔さをイメージする上で、「日本」という統一的な国家の名称が、「出雲と大和」でも「大和と蝦夷」でも「蘇我と物部」でも「関東と関西」でも構わないが、「と(&、and)」でつながれた国名であった場合を仮に想像してみるとよい。途端に統一性が剥がれ落ち、隠蔽されていたスキャンダラスな不安定性が露呈していくのを感じないだろうか。(実際、イギリスやボスニア・ヘルツェゴビナなど正式な国名に「and」が使用されている国も存在し、実際その政治や文化の中にもそれぞれの歴史的な差異をそのままの差異としてある程度留めているという特徴がある。)「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」という名称の持つ潔さとは、この不安定性をごまかさず敢えて引き受けていく潔さのことである。

 木村敏(2005)は音楽について次のように表現する。

 音楽という行為は、人間のいとなむ他のすべての行為と同様に、人間が生きているということに直接に根差した生命活動の一つである。しかもそれは、食べることや眠ること、あるいは生殖行為などと並んで、もっともすぐれた意味での生命活動に属するものであるのかもしれない。歌い踊るという行為のうちに、われわれは生きものとしての人間における、もっとも原始的で根源的な形での生命の迸りのようなものを認めることができる。

 「食べること」は「食料」という「他者」を「自己」の中に取り入れていくことであり、「眠ること」は「夢」や「夜」「闇」といった「他者」の活動に「自己」を解放していくことであり、また「生殖行為」は「異性」という「他者」と「自己」との交歓のことである。生命活動とはそれが原初的な営みであればあるほど、「自己」には決して統制しきれない「他者」との本源的な交流という意味合いが強くなる。生命活動とは本来、この「自己」と「他者」との交流という、どうなるかわからない不安定性に彩られているのだ。予め周到にデザインされたエンジニアリングとは全く異なるブリコラージュこそ、生命活動によく似ている。音楽という行為は、まさにこの生命活動の不安定性を、ブリコラージュ的な手捌きで不安定なままに表現しながら安定化していくという営みである。
 この音楽という行為の特徴を語るうえで、木村は「ノエシス」と「ノエマ」という術語を導入する。「ノエシス」とは、音楽というものを現在において次々と生み出していく行為的な側面のことを言う。一方の「ノエマ」とは、音楽なるものを意識によって表象する側面のことを言う。今まさに歌を歌うその「ノエシス」的な行為が、「歌を歌っているのだ」という「ノエマ」的な意識を生み出し、さらに「この後はこんなふうに歌おう」という「ノエマ」的な意識が「ノエシス」的な歌う行為に影響を与えていく。この無限の相互的交歓が、音楽である。幼子をあやす子守歌にも、夕食準備のまな板の上の鼻歌にも、熱狂的な武道館ライブにも、壮麗なオペラコンサートにも、あらゆる音楽にはこの「ノエシス」と「ノエマ」の相互的な交歓が繰り広げられている。
 さらに木村は合奏に関して次のように言う。

 たとえばピアノとヴァイオリンの理想的な二重奏が行われている場合を考えると、ピアニストはピアノのパートを、ヴァイオリニストはヴァイオリンのパートを分担して音を出すことはもちろんなのだが、不思議なことに二人とも、ピアノとヴァイオリンとの音が合わさって一つにまとまった音楽を、自分自身の演奏している音楽として聴いている。自分の指はピアノの鍵盤しか叩いていないのに、同時に聞こえてくるヴァイオリンの音まで、まるで自分が弾き出した音であるかのように意識している。
 しかしもちろんそれと同時に、各演奏者は自分自身の演奏するパートだけの音もノエマ的に意識している。ことに二人の呼吸が少しでも喰い違って合奏に微妙なずれが生じたときには、それぞれの意識はたちまち自分だけのパートに集中することになるだろう。理想的な合奏であってもこのようなずれは実際に絶えず起こっている。
 合奏において各奏者が自分の意識のノエマ面として全体の音楽を聴いている場合、それに相関するノエシス面はもはや各自の「実の」ノエシス面ではあり得ない。それはいわば各自の意識における「虚の」ノエシス面である。個人の意識の「内部」に、個別的な意識の主体性を止揚した集合的・間主体的で自律的なノエシスノエマ相関が成立していると言っていい。そしてそれと同時に、各演奏者の主体的で自律的な音楽創造の意志も必ずそこに働いている。この全体的意識と個別的意識の同時成立は、二つの別個の志向性が互いに素早く交代したり、並行して同時に進行したりしていると考えるよりも、むしろどこまでも一つの意識の一つの志向性、単一のノエシスノエマ相関が示す二つの局面だと考えるべきだろう。主体が自分のパートだけを意識したり間主体的に全体の音楽を意識したりするのは、そのつどの自由な観点の変更によるのである。

 二つの主体の合奏において成立する「「虚の」ノエシス」。どちらの主体が先導しているのでもなく、どちらの主体が従属しているのでもない。各演者の個別性を超えた「集合的・間主体的で自律的なノエシスノエマ相関」が演奏をリードしていくのである。「B’z」や「ゆず」のような統一的な名称によるデュオ・グループの命名とは、この「「虚」のノエシス」、あるいは個別性を超えた「集合的・間主体的で自律的なノエシスノエマ相関」を実体化する操作である。「虚」を「実」に変換する操作と言ってもよい。「虚」を「実」に変換することで「ノエシス」を「ノエマ」に転じる操作だと言ってもよい。ともかく「ノエシス」の持つ不安定性や流動性を、単一の名称という固定的な表象に転じるのが統一名による命名という操作である。一方、「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」という「&(and)」によって繋がれた名称は、「「虚」のノエシス」を「実」に変換し尽さず、どこかに「虚」を留め置こうとする名称であると言えるだろう。