とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第2章 YAH YAH YAH(4)

 「2」を「2」のままに、「チャゲ」と「飛鳥」の差異をその差異のままに、不安定性や流動性に曝し続けるブリコラージュ的な名称「チャゲ&飛鳥」の中に、僕たちは神話的な「1」の訪れを目撃する。それはまさに、「「虚」のノエシス」の到来である。「チャゲ&飛鳥」から「CHAGE and ASKA」に至るまで一貫して彼らのステージパフォーマンスが多くの人々の心を捉えて離さないのは、そのデュオ・グループの命名に象徴されるように、この「「虚」のノエシス」の訪れこそを大切にしてきた所以であろう。ライブという場は、「「虚」のノエシス」の生成の場であるのだから。


 あの日そいつが僕の家に電話をかけてきたのは、病院からだった。当時の僕は「急性骨髄性白血病」という病名の深刻さを全く理解していなかった。そいつはそれまでにも何度か入退院を繰り返していて、その度に復帰して元気に遊んでいたからだ。僕はすぐ傍にいた“かの女”に受話器を渡した。そいつはきっと受話器の向こうで驚いていたことだろう。僕と“かの女”とが交際していることを、そいつにはきちんと話をしていなかったからだ。「またみんなでチャゲアスのコンサートに行こう!」「おぉ!行こう、行こう。」そいつとの会話はそれが最期になった。その電話の2日後そいつは息をひきとった。「病室」と「自室」、「孤独」と「恋愛」、「死にいく者」と「生き残る者」。そいつと僕とを隔てる差異は、とてつもなく大きかった。死闘を繰り広げた石川と司馬。石川がスキルス性の胃癌によって亡くなった直後、司馬もまたこの世を去る。彼らはともに死者という同一性を有する双子に還ったのだ。しかし、いまだに僕は生きている。あれほど誠実だったそいつは死に、“かの女”との関係を正直に打ち明けられなかった卑怯者の僕がいまだに生き永らえている。そいつと僕とを、一つの名前で呼ぶことなど、僕には今でもとてもできない。だがどこかで求めているのかもしれない。そいつも、僕も、それから“かの女”も、ともに肯定され、抱きかかえられることを。


 「YAH YAH YAH」の「YAH」は、英語圏で言えば「YES」のくだけた口語表現である。「自己」と「他者」と、それからもう一者。「2」を下から抱きかかえるような「1」。その3者を同時に肯定しようとするとき、僕たちは力強く拳を突き出して「YAH YAH YAH」と叫びたくなるのかもしれない。