とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第3章 君の好きだった歌(2)

  イタリア、ウンブリア平原。アペニン山脈に穿たれた穴。鳥が歌い、花が踊り、蝶が舞う穏やかな丘陵地帯だ。13世紀初頭、この地に立ち上がった「愛」がある。アッシジのフランチェスコ。現在に至るまで連綿と続くカトリック教会。その屋台骨を支える重要な修道会フランシスコ会のルーツは、このフランチェスコの回心という出来事に求められる。


  ローマから直線距離で約130km。ウンブリア平原の縁に位置する片田舎の町アッシジで、フランス人の母とフランス贔屓の商売をしていた父との間に生まれた彼が、フランチェスコ(=フランス人)と改名したことの意味は絶大だ。当時の十字軍に対するフランス人の貢献などから察するに彼にはどこか先進的な気風が漂い、またどこか片田舎の共同性の埒内には十分に収まりきれない独特の風変りさを持っていたのだろう。そしてそのような彼だからこそ、彼の眼は「当たり前」なるものの外側に視点を置くことができたとも言える。


  フランチェスコの半生を描いた、イタリアとイギリスの合作映画「Brother Sun Sister Moon」は、冒頭のこんなシーンから物語が始まる。


  ペルージアとの戦乱から命からがら逃げ帰ってきたフランチェスコは、熱病にうなされながら回想のような夢を見る。泉のほとりにたたずむ美しい少女クララの呼び声に、ハンセン氏病を患う人々や貧しい人々が草むらから現れ出て集う。クララに微笑みを投げ掛けていたフランチェスコの表情が歪む。不安と恐怖に満ち満ちた表情でフランチェスコはその場から立ち去る。ベッドの上で悶え苦しむ夢見手のフランチェスコ。続いて回想らしき夢は場面を変える。召使たち数人がかりでピカピカのアーマーを着せられたフランチェスコは、鏡に映し出された自らの姿を見る。それまで家族と軽口をこぼしながら談笑し緩みきっていたフランチェスコの表情が歪む。不安と幻滅に彩られた表情でフランチェスコはつぶやく。「This is my death mask.(私の死に顔だ。)」


  戦地に赴き捕虜となり、身近な友人や知人が次々と命を落とし、自分一人が生き永らえた一兵士が強烈なまでに痛感する、ある問い。それは「なぜ彼ではなく自分が生き残ったのか」である。自分のすぐ目の前にいた彼が死に、自分が生き残った必然性は一体何なのか、という問いである。この問いは、大澤真幸(2015)によれば「根源的偶有性」に関する問いである。偶有性とは「他でもあり得た可能性」である。戦地という混乱状態の中で、自分と彼はたまたまいた場所が異なっていただけである。敵兵が振り下ろした剣の下にいたのが、そのときたまたま彼であっただけである。剣の振り下ろし先がほんの少し違えば、自分が死に彼が生き残っていた可能性だってありありとイメージされる。

  これが戦地という現場のリアリティであろう。
そんな戦地の生き残りであるフランチェスコは熱病にうなされながらこの根源的偶有性に触れた。これまで「当たり前」に確かだと信じていた、健康/病気、富/貧困、名誉/屈辱、生/死というそれぞれの差異が、全く確かなものなどではなく、たまたまの偶有性に彩られていることに深く気づいてしまったのだ。回想らしき夢の中で歪むフランチェスコの表情は、まさにこの気づきへの反応である。