とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

はじめに

  そのとき、僕は確かに2つに分裂した。僕の心の中の、「あのASKA」と「このASKA」とが。いや、もっと直截的に言ってしまえば、こう言ってもいい。「あの僕」と「この僕」との分裂であった、とも。

 

  そのとき、警察車両の後部座席で、幾重にも重なるガラスケースのごときものの中に、ASKAは口元を引き締めおし黙ったままの姿で陳列させられていた。僕にとって、この目撃は、父の死に匹敵するものだった。

 

  僕の父は、東北地方に悲劇が襲いかかったちょうどその年の夏、まるで生まれ故郷の魂たちの足跡を辿るように、遥か彼岸に旅立った。僕にとってもう一人の父ASKAを襲ったあの出来事がもたらした心への強度は、この父の死がもたらしたそれと、とてもよく似ていた。

 

  「強度」とは本来的に「意味」の対極にある。だからもちろん、そのときの僕が、どんなに必死に懸命に、その状況の「意味」を探ろうとしても、あるいはその状況を「意味」に押し込めようとしても、残念ながら心を繰り返し襲来する「強度」には、あらがいようがない。しかし、そんなことはわかっていても、愚かにもあらがってしまう。かりそめの「意味」にすがろうとする。むなしさと哀しみを連れながら。

 

  ASKAはたびたびこう言う。「物事には理由がある」と。確かに、そのとき僕の心を襲撃した「あのASKA」と「このASKA」の分裂という出来事にも、無論理由はある。しかし、「理由」すなわち「由縁が生じる理(ことわり)」は、蒙昧な僕たち人間にはすぐには判然としないことのほうが多い。「強度」の大きい出来事であればあるほど。なおさらに。だからこそ僕たち人間は途方もない歳月をかけて「服喪」という習俗を考案したのだ。僕は、父の死に引き続き、ASKAに訪れたあの出来事の目撃とともに、再び喪に服する時間に入った。

 

  永い永いときが過ぎた。僕にとって、かけがえのないときだった。2人の父を綯い交ぜにして、大きな心の壺の中で熟成させていくための必要十分なときだった。

 

  ようやく、喪があけそうだ。それは、あのときに分裂した「あのASKA」と「このASKA」を抱き締める時間だ。それはとりも直さず、「あの僕」と「この僕」を両手いっぱいに抱き締める時間だ。

 

  この愛のために。