とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第3章 君の好きだった歌(6)

  ASKAはSAY YESの大ヒットの直後、1992年のCONCERT TOUR 1992 “BIG TREE”のステージの上で、次のような一節を含む「道標」という散文詩を披露している。

 

道標は はじめからあった気がします
例えば 大きな風が風車を回すのではなく
小さな風車に生まれた風が
遠い海を越えることを知った時も
やっぱり
道標ははじめからあった気がします

 

  フランチェスコによる裸の反復という出来事、そして「小さき兄弟会」に生まれた風が、遠い海を越える道標は、確かにBrother Sunによって照らし出されていた。しかし、CHAGE&ASKAによる、いやASKAによる反復に生まれた風は、東シナ海や南太平洋を越え、東アジア諸国には瞬く間に広まり熱狂的に受け入れられたものの、太平洋という大海原を越えようとしたところでその風が止んでしまった。アルバム「Code Name1. Brother Sun」のリリース前後、CHAGE&ASKAから生まれた風は、間違いなく太平洋を越えようとしていた。ハリウッド映画の主題歌起用、MTV Unpluggedへのアジアミュージシャン初の出演、西洋圏の著名な海外ミュージシャンたちによるトリビュート・アルバム「one voice THE SONGS OF CHAGE&ASKA」のイギリス・タワーレコードのコンピレーション部門での1位獲得など、太平洋を越える風は確かに順風満帆のように見えた。しかし、ここではたと風は止んだ。Brother Sunに照らされたフランチェスコの跳躍。そこから生まれた風は、幾多の荒波に遭遇しながらも、確かに大きな海を越えた。しかし、同じくBrother Sunに魅せられフランチェスコのようにステージ上で大きく両手を広げたASKAの跳躍から生まれた風は、このとき太平洋を越えることなく風が止んでしまったのだ。

 

  宗教改革ルネサンスの両輪が、福音主義啓蒙主義とを結びつけ、蒙昧に苦しむ世界の人々にBrother Sunによる光明をもたらすような運動を展開させる原動力になったのは、キリスト(真理)という一者への希求である。多の者(他の者)を巧みに含み込むように見せかけながらそしてこっそりと締め出すための、周到な統一化への戦略がそこにはある。啓蒙主義は、アメリカ・インディアンのコヨーテとオオヤマネコが元は双子だったという「と(and、&)」の思考を決して許さない。「種」や「進化」といったキリスト教世界で馴致された(つまり、キリスト教の信ずる神によって承認された)ある一つの形式によって合理的とされる説明を経由しなければ、虚妄あるいは野蛮と排されるのだ。こうして、「と(and、&)」の持つ創造性や多様性は知らず知らずいつの間にか締め出され、抑圧されていく。


  ASKAの跳躍という小さな風車に生まれた風が遠い海を越えることを止めたのは、この多様性の締め出しや抑圧に遭遇してからだ。ASKAは、「CHAGEASKA」というグループ名に由来するブリコラージュ的で朴訥とした在り方と、キリスト教世界の周到に多様性を締め出そうとする厳格なメカニズムとの間に横たわる深淵に当面していた。この深淵を乗り越えるには、ASKAはどうしてもキリスト教世界が暗に提示する「統一原理」を探らねばならなかった。それを裏付けるかのようにASKAは1995年以降、「と(and、&)」を排した活動、ソロ活動に没頭していくこととなる。

 

  そいつという死者の声に強く縛られた、僕と“かの女”との関係は破綻した。そいつの死をともに目撃した僕たちの出来事の反復が、もはや「拍子」として聞き取れず、僕たちはうまく「リズム」が合わせられなくなっていたのかもしれない。
  そして僕は、“かの女”と出会う。僕の父をして「マリアのような人」と言わしめた、“かの女”に。

第3章 君の好きだった歌(5)

  フランチェスコが目指したこと。それはキリストの反復である。キリストのように一切の所有や形骸から解き放たれ、生身の人間として再生することこそ、フランチェスコの回心という出来事である。キリスト教が普遍宗教としてヨーロッパという埒を越える上で、この素っ裸で城壁のアーチを越えたことに象徴されるフランチェスコと、フランチェスコによるキリストの反復というモチーフの貢献は絶大だ。
  後にフランシスコ修道会の極めて重要な会則の起源となる、フランチェスコ自身が記した「原始会則」は次のような宣言から始まる。「これは兄弟フランチェスコ教皇聖下に認下され確認さるべく聖下に提上せるイエス・キリストの福音による生である。」フランチェスコは、修道会での生活がイエス・キリストの生や経験の反復であることに徹底的にこだわる。ここでのキリストの生や経験とは端的に言ってしまえば「死と再生」である。ゴルゴダの丘で死にオリーブ山で復活をした、あの生と経験である。肉への執着が死に、霊性が復活するというあの出来事である。キリストを訪れた、この生が、この経験が、この出来事が、いかに遍く人々の内にも反復し得るのか、この問いこそが「小さき兄弟会」から始動したキリストの一回性の生や体験や出来事を普遍化するというフランチェスコの挑戦を強く動機づけた。
  キリスト教世界宗教化する上で、つまりキリストという一者の生が多の者(他の者)の生として普遍化するというパラドキシカルな挑戦を行う上で、Deleuzeが言うところの二つの「反復」の区別は重要だ。Deleuzeはこの区別について、次のように述べる。


  リズム理論は、わたしたちに、反復の二つのタイプを直接に区別するよう促す。〈韻律 〔拍子、構成単位〕-反復は、時間の規則的な分割であり、同一的な諸要素の等時的な回帰である。しかし、一定の持続は、〈強さアクセント〉によって規定されるのでなければ、また諸強度によって支配されるのでなければ、存在しない。もろもろのアクセントは等間隔で再生されると言ってしまうなら、アクセントの機能について誤解することになるだろう。逆に、強さのつまり強度的な諸価値〔アクセント〕は、韻律的に等しいいくつかの持続つまり空間のなかに、いくつかの不等性、通約不可能性を創造するように作用するのである。それらの価値は、ひとつのポリリズムをつねに示す複数の特別な点〔特異点〕、つまり特権的な瞬間を創造する。そこでもまた、不等なものが、もっとも定立的なものである。韻律は、ひとつのリズムの、そして諸リズムの関係=比の外被にすぎない。不等性の点の、屈曲の点の、リズム的出来事の繰り返しは、同質的な通常の要素の再生よりもずっと深いものである。そうであればこそ、わたしたちは、いたるところで、〈韻律-反復〉と、〈リズム-反復〉を、前者は後者の抽象的な仮象あるいは効果にすぎないがゆえに区別しなければならないのである。(《同じ》ものの反復としての)物質的で裸の反復が出現するのは、つぎのような意味においてである。すなわち、それとは別の〔着衣の〕反復が、その裸の反復を構成しながらその裸の反復のなかでおのれを偽装し、かつおのれを偽装することによっておのれ自身をも構成するという意味においてである。自然においてさえ、もろもろの等時的な自転運動は、もっと深いひとつの運動の仮象にすぎず、もろもろの公転的な循環は、抽象的なものにすぎない。だが、それら公転的な循環は、関係のなかに置かれると、進化の諸循環を、すなわち可変的な曲率をもった螺線を、しかも左右非対称のアスペクトをもつ軌道をとる螺線を開示する。否定的なものと混じり合っていないそのような開口においてこそ、そしてつねにこの開口において、被造物たちは、生きる能力と死ぬ能力を受けとると同時に、自分たちの反復を織りあげているのである。


  Deleuzeの言っていることをここでの文脈にやや強引に結びつけてしまえば、拍子(mesure)の反復(裸の反復)と、リズム(rythme)の反復(着衣の反復)との区別は、フランチェスコによるキリストの反復と、修道会の修道士たちや宣教師が布教する世界各地の信者たちによるキリストの反復との区別に、ある面で似ている。あのキリストの「死と再生」の出来事を、フランチェスコは文字通り〈裸で〉反復をし、そのフランチェスコの反復を、さらに修道士たちや世界中の信者たちが〈着衣で〉反復をするのだ。霊となったフランチェスコが「拍子」をとり、肉体を持つ修道士たちや世界中の信者たちが実に多様な「リズム」で舞い踊る。これこそが、キリスト教世界宗教化の端的なメタフォリカル・イメージだ。このようにしてキリスト教はキリストという一者の生が多の者(他の者)の生として普遍化するという大きな矛盾を乗り越えた。むろん「拍子」をとったのはフランチェスコだけではない。ドミニコが、イグナチオ・デ・ロヨラが、ヨハネ・ボスコが、各々の所作でキリストの出来事という「拍子」を反復し、世界各地の信者たちがそれに合わせて「リズム」を刻んだ。重要な点は、世界各地で実に多様な差異を含み込みながらも、あのキリストを訪れた出来事の反復を留めておくこと。つまり、キリスト教の普遍化において、元を辿れば必ずキリストという単一者の奇跡的な反復に回帰し得ることこそが、極めて重要な大前提なのである。だからこそ典礼論争という切実な問題が生じる。中国の典礼を認めてしまえば、それはもはやキリストのあの出来事の反復という「拍子」がとれなくなってしまうからだ。そこでキリスト教はさらにこの後、福音主義を武器に、さらなる世界への普遍化を図ることになる。

第3章 君の好きだった歌(4)

  ASKAは、アルバム「CodeName1. Brother Sun」のリリースに合わせて行われた月刊カドカワ‘95年8月号のインタビューで、この「Brother Sun Sister Moon」という映画について、こんなふうに語っている。


  「『Brother Sun Sister Moon』っていう‘72年に作られたイタリア映画がヒントになったんだ。僕もずいぶん昔に観たのね。わりと宗教的な要素の濃い映画なんだけど、僕は内容というよりも映像に魅かれたんだ。内容的には、すごく当たり前のことを言っているんだけどね。つまり、世の中を醜くしているのは人の欲なんだ…みたいなテーマで。最近になって改めてこの映画を観直してみて、やっぱり内容もすごく心に残っていたんだなって気づいたんだけど。当時は、とにかくなんて綺麗な映像なんだっていう印象が強くて。豪商の家に生まれた主人公が、とにかく欲を捨てて生きていきたいと決意するんですよ。それで、みんなが集まっている場所で服を脱ぎ捨てて裸になって「僕は裸のまま、飾りのない人間として生きていきたい」みたいなことを言って、ひとつの門をくぐるのね。その時、門の向こうにワーッと光が上がってきて。その光に向かって主人公が両手を思いっきり広げている姿を、カメラが背中越しにとらえてね。それがとにかく綺麗で。ここぞという瞬間の光がね、もう強烈な印象でさ。それでコンサートの演出なんかでも、あの場面を何とか再現できないだろうかって考えたりして。これまでも、いろんな場面で使ってきているのね。そういう、僕にとっては非常に重要な映画だったわけですけれど。それを今なぜタイトルに…と聞かれると、困ってしまう。それは本当に、フッと瞬間でひらめいたものだったから。」

 

  「CodeName1. Brother Sun」がリリースされた1995年は、CHAGE&ASKAが文字通り世界に羽ばたく画期的なときを迎えていた。前年の1994年にThe World Music Awardsを3年連続で受賞し、初のアジアツアーを大成功におさめるなど、日本という埒を越え、遥かな大舞台に挑戦するCHAGE&ASKAの姿がそこにはあった。

  CHAGE&ASKAのこのときの跳躍は、あの素っ裸で無限に広がる平原に差し向かい両手を広げBrother Sunの光に照らされるフランチェスコの姿に重なる。ASKAはこのインタビューに、フランチェスコのこの宗教的な回心という内容面に対する強烈なインパクトへの直接的な言及を巧みに回避している。それでも、というよりむしろだからこそ、この「強烈な印象」をアルバムタイトルに据えるという大胆な形で表現しなければならないほどに、この印象が当時のASKAに与えた、ちょっとしたインタビューなどではとても筆舌し尽せぬ内発的な強度の凄まじさを感じずにはいられない。

第3章 君の好きだった歌(3)

  根源的偶有性に心が開かれてしまった者にとって、この世界のあらゆる構造物は、虚構に過ぎないと映るだろう。なぜなら、その構造物には必然性など実はなく、ただたまたまそうなっているだけであることに、虚しくも気づいてしまったのだから。そして何より、その構造物の必然性への信頼や執着が実に儚く愚昧に満ちたものであることにも気づいてしまったのだから。フランチェスコの父親ピエトロが、だからどんなに高価な商品や金銀財宝を彼の前に並べても、フランチェスコにとってそれは虚構以外の何物でもない。そんな虚構を再生産し続ける父ピエトロの商売の陰で下働きの貧民たちが苦しみ喘いでいる。彼らと自分との間に一体どのような違いがあるというのだろうか。フランチェスコの心にはこうして、欺瞞だらけの虚構への憤りが鬱積していく。フランチェスコは終に父親の財産を町中の貧者にばら撒き始める。


  自分の力ではもはやフランチェスコの突飛な言動を抑えきれなくなった父ピエトロは、フランチェスコを教会へ連れて行く。絢爛豪華な教会の広間で豪勢なメニューに手をつけようとしていたグイード司教は食事の最中に父子の痴話げんかに付き合わされたことで不機嫌そうに彼らの前に現れた。

  現れた司教と集まった民衆たちに向かって、ピエトロは訴える。「私はできるだけのことを…。何の不自由もなく育てました。皆も知ってます。何もかも与えてやったのに…。突然、私の財産を窓から投げ捨て金庫の中身までどうでもいい奴らに投げ与えた。」悔しそうな表情を浮かべ「息子のために捧げた長い年月の苦労も、水のアワ…」ピエトロは泣き崩れる。
  グイード司教はピエトロの様子を見て憐れみ、フランチェスコに向かって言う。「当人はそれに何と答えるのか?分かっているはずだ。確立した体制への反逆を教会は認めない。お前のような男は社会への脅威。犯罪者だ!」
  フランチェスコは司教の強い言葉に触発されて応える。「光明を求める者です。闇に悩む者…。私は闇に…。だがブラザー・サンが私の魂を照らし、今は、すべて明瞭です。あなたが聖職を決心された日のように…。」
  グイード司教の顔が歪む。「では、聖職につきたいのか?」
  フランチェスコは驚いた表情で、「私が…?そんな資格は…」と戸惑う。
  「では、何が望みなのだ?」グイード司教は訝し気に尋ねる。
  フランチェスコは自らの魂に問いかけるように、司教の問いを自らに差し向ける。そして応える。「私の望みは幸福です!鳥のように生きたい。その自由と清らかさを知りたいのです。あとは無用…無意味です。喜びのない労苦が人生なら、私は拒否します。何かもっと…。私たちは人間です。霊を持った存在です。魂、その自分の魂を取り戻したいのです。私は生きたい!野に暮らし、丘に行き、木にのぼり、川に泳ぐ。この足で大地を確かめたいのです!靴もはかず何も持たずに。召使という影も連れず。私は貧者になりたい!貧者、キリストも貧者でしたしその使徒も。その自由が欲しい。」
  堪らずピエトロが口を挟む。「ですが、貧者でも親を敬う!」
  フランチェスコはピエトロを真っ直ぐに眼差して言う。「もう息子ではない」と。「肉からは肉しか生まれず、霊は霊からのみ生まれるのです。私は今生まれ変わった。」着ている服を全て脱ぎ、裸になるフランチェスコ。脱ぎ捨てた服を父ピエトロの前に差し出しながら歩み寄る。「すべてをお返しします。あなたの衣類。あなたの富を。もう父も子もない。家を捨て、兄弟を捨て、父を捨て、母を捨て、子を捨て、畑を捨て。天なる父を求める者は次の世で100倍も報われる。」

 

  丸裸で町の城壁のアーチをくぐり抜け、フランチェスコはまるで大空を羽ばたく鳥のように両腕を広げる。目の前には広大な平原の広がり。そして天にはBrother Sunが燦々と輝いている。

第3章 君の好きだった歌(2)

  イタリア、ウンブリア平原。アペニン山脈に穿たれた穴。鳥が歌い、花が踊り、蝶が舞う穏やかな丘陵地帯だ。13世紀初頭、この地に立ち上がった「愛」がある。アッシジのフランチェスコ。現在に至るまで連綿と続くカトリック教会。その屋台骨を支える重要な修道会フランシスコ会のルーツは、このフランチェスコの回心という出来事に求められる。


  ローマから直線距離で約130km。ウンブリア平原の縁に位置する片田舎の町アッシジで、フランス人の母とフランス贔屓の商売をしていた父との間に生まれた彼が、フランチェスコ(=フランス人)と改名したことの意味は絶大だ。当時の十字軍に対するフランス人の貢献などから察するに彼にはどこか先進的な気風が漂い、またどこか片田舎の共同性の埒内には十分に収まりきれない独特の風変りさを持っていたのだろう。そしてそのような彼だからこそ、彼の眼は「当たり前」なるものの外側に視点を置くことができたとも言える。


  フランチェスコの半生を描いた、イタリアとイギリスの合作映画「Brother Sun Sister Moon」は、冒頭のこんなシーンから物語が始まる。


  ペルージアとの戦乱から命からがら逃げ帰ってきたフランチェスコは、熱病にうなされながら回想のような夢を見る。泉のほとりにたたずむ美しい少女クララの呼び声に、ハンセン氏病を患う人々や貧しい人々が草むらから現れ出て集う。クララに微笑みを投げ掛けていたフランチェスコの表情が歪む。不安と恐怖に満ち満ちた表情でフランチェスコはその場から立ち去る。ベッドの上で悶え苦しむ夢見手のフランチェスコ。続いて回想らしき夢は場面を変える。召使たち数人がかりでピカピカのアーマーを着せられたフランチェスコは、鏡に映し出された自らの姿を見る。それまで家族と軽口をこぼしながら談笑し緩みきっていたフランチェスコの表情が歪む。不安と幻滅に彩られた表情でフランチェスコはつぶやく。「This is my death mask.(私の死に顔だ。)」


  戦地に赴き捕虜となり、身近な友人や知人が次々と命を落とし、自分一人が生き永らえた一兵士が強烈なまでに痛感する、ある問い。それは「なぜ彼ではなく自分が生き残ったのか」である。自分のすぐ目の前にいた彼が死に、自分が生き残った必然性は一体何なのか、という問いである。この問いは、大澤真幸(2015)によれば「根源的偶有性」に関する問いである。偶有性とは「他でもあり得た可能性」である。戦地という混乱状態の中で、自分と彼はたまたまいた場所が異なっていただけである。敵兵が振り下ろした剣の下にいたのが、そのときたまたま彼であっただけである。剣の振り下ろし先がほんの少し違えば、自分が死に彼が生き残っていた可能性だってありありとイメージされる。

  これが戦地という現場のリアリティであろう。
そんな戦地の生き残りであるフランチェスコは熱病にうなされながらこの根源的偶有性に触れた。これまで「当たり前」に確かだと信じていた、健康/病気、富/貧困、名誉/屈辱、生/死というそれぞれの差異が、全く確かなものなどではなく、たまたまの偶有性に彩られていることに深く気づいてしまったのだ。回想らしき夢の中で歪むフランチェスコの表情は、まさにこの気づきへの反応である。

第3章 君の好きだった歌(1)

君が残した brother sun and sister moon
your man said, too young to love.


  そいつが旅立ってからも、僕と“かの女”との関係は続いた。「結婚」というキーワードが若い二人の間を幾度も飛び交った。でも、僕には全くリアリティがなかった。もちろん初めからそうだったわけではない。内から湧き起こる強度がまるで必然のように「結婚」という言葉を噴出させてくることのほうが初めはむしろ多かっただろう。しかし、その当時僕たちはまだ高校生。融通無碍な強度の在り方に本来もっと素直なはずの年代を僕たちは生きていた。僕たちは、僕たちの関係に縛りつけられたまま、あまりに永いときが経過しすぎた。その永い月日の中で、僕の中の融通無碍な強度としての「愛」が「結婚」という言葉に押し込められるたびに、少しずつ少しずつ高揚感よりも虚無感が心を覆い尽くす時間が多くなっていった。またその虚無感を自分の心に認めるたびに、無理やりに「愛」を装って高揚感を演出して見せるのだった。高揚感と虚無感の寄せては返す波間に僕はただ身を委ねるしかなかった。


  融通無碍な強度を、僕も“かの女”もお互いに何か頑ななまでに、僕と“かの女”という二人の男女の結びつきなる「形式」に拘束し続けていたのは、きっとそいつとの無意識の対話が影響していたのだろう、と今になって強く感じる。そいつはあのとき普通の意味でのコミュニケーションが絶対的に不可能な「他者」としての「死者」となった。僕の心にはひとりでに「そいつの分まで“かの女”を愛し続ける」という誓いのようなものが育っていった。“かの女”への裏切りはそいつへの裏切りである。死者の魂への冒涜である。僕の心は、僕自身にそんな掟を知らず知らずのうちに課していた。この死者との対話へと通じる“かの女”との関係こそ、僕の心に寄せては返す高揚感と虚無感の由縁だろうと、今僕は思う。この死者に揺動される高揚感と虚無感とを抱えるには、僕の「愛」はまだ若すぎたのかもしれない。

第2章 YAH YAH YAH(4)

 「2」を「2」のままに、「チャゲ」と「飛鳥」の差異をその差異のままに、不安定性や流動性に曝し続けるブリコラージュ的な名称「チャゲ&飛鳥」の中に、僕たちは神話的な「1」の訪れを目撃する。それはまさに、「「虚」のノエシス」の到来である。「チャゲ&飛鳥」から「CHAGE and ASKA」に至るまで一貫して彼らのステージパフォーマンスが多くの人々の心を捉えて離さないのは、そのデュオ・グループの命名に象徴されるように、この「「虚」のノエシス」の訪れこそを大切にしてきた所以であろう。ライブという場は、「「虚」のノエシス」の生成の場であるのだから。


 あの日そいつが僕の家に電話をかけてきたのは、病院からだった。当時の僕は「急性骨髄性白血病」という病名の深刻さを全く理解していなかった。そいつはそれまでにも何度か入退院を繰り返していて、その度に復帰して元気に遊んでいたからだ。僕はすぐ傍にいた“かの女”に受話器を渡した。そいつはきっと受話器の向こうで驚いていたことだろう。僕と“かの女”とが交際していることを、そいつにはきちんと話をしていなかったからだ。「またみんなでチャゲアスのコンサートに行こう!」「おぉ!行こう、行こう。」そいつとの会話はそれが最期になった。その電話の2日後そいつは息をひきとった。「病室」と「自室」、「孤独」と「恋愛」、「死にいく者」と「生き残る者」。そいつと僕とを隔てる差異は、とてつもなく大きかった。死闘を繰り広げた石川と司馬。石川がスキルス性の胃癌によって亡くなった直後、司馬もまたこの世を去る。彼らはともに死者という同一性を有する双子に還ったのだ。しかし、いまだに僕は生きている。あれほど誠実だったそいつは死に、“かの女”との関係を正直に打ち明けられなかった卑怯者の僕がいまだに生き永らえている。そいつと僕とを、一つの名前で呼ぶことなど、僕には今でもとてもできない。だがどこかで求めているのかもしれない。そいつも、僕も、それから“かの女”も、ともに肯定され、抱きかかえられることを。


 「YAH YAH YAH」の「YAH」は、英語圏で言えば「YES」のくだけた口語表現である。「自己」と「他者」と、それからもう一者。「2」を下から抱きかかえるような「1」。その3者を同時に肯定しようとするとき、僕たちは力強く拳を突き出して「YAH YAH YAH」と叫びたくなるのかもしれない。

第2章 YAH YAH YAH(3)

 近代においては、国家にせよ、社会にせよ、エンジニアリングの手捌きで、「歴史」を遡ってその正統性を事後的に周到にデザインする。その際、差異を統一的な名称に収める命名という操作は極めて重要な役割を果たしている。統一名の構成という操作は、ブリコラージュ的な現実の隠蔽なのである。ブリコラージュ的な現実とは、ある国家やある共同体が生じたのは、たまたま偶発的に生じた出来事であったというその現実のことである。「出雲」と「大和」とが「日本(ひのもと)」という統一的な名称に収められるとき、かつてはそれぞれバラバラの利害で動いておりスキャンダラスな闘争が繰り広げられていた現実を、本当のところ偶発的な要因で勝利したのかもしれないという実態を、両者の出遭いが本当はブリコラージュ的な偶有性に彩られていたという実情を、周到に隠蔽し、「日本(ひのもと)」の「歴史」の必然性を強調する。この「日本(ひのもと)」という命名とともに、「出雲」と「大和」の遭遇というブリコラージュ的な出来事は隠蔽されるのだ。

 グループ名も同じだ。「B’z」にせよ、「ゆず」にせよ、2人のメンバーのそれぞれがバラバラだった時代が過去にはあるが、統一的な名称に収められた途端に、それぞれバラバラだった「歴史」が、まるでこの統一のための必然であったかのように物語られていく。それは、両者の出遭いがブリコラージュ的な出来事であったことを巧みに隠蔽する機能を果たしている。ところが、「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」というグループの名称は違う。ブリコラージュ的な出遭いの現実を隠蔽しない。差異を差異そのままの姿で見せているのである。「チャゲ」と「飛鳥」が別々の来歴を持っている個別的な存在であることを、「チャゲ」と「飛鳥」の差異を、潔くその名称に留めている。この命名の独特の潔さをイメージする上で、「日本」という統一的な国家の名称が、「出雲と大和」でも「大和と蝦夷」でも「蘇我と物部」でも「関東と関西」でも構わないが、「と(&、and)」でつながれた国名であった場合を仮に想像してみるとよい。途端に統一性が剥がれ落ち、隠蔽されていたスキャンダラスな不安定性が露呈していくのを感じないだろうか。(実際、イギリスやボスニア・ヘルツェゴビナなど正式な国名に「and」が使用されている国も存在し、実際その政治や文化の中にもそれぞれの歴史的な差異をそのままの差異としてある程度留めているという特徴がある。)「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」という名称の持つ潔さとは、この不安定性をごまかさず敢えて引き受けていく潔さのことである。

 木村敏(2005)は音楽について次のように表現する。

 音楽という行為は、人間のいとなむ他のすべての行為と同様に、人間が生きているということに直接に根差した生命活動の一つである。しかもそれは、食べることや眠ること、あるいは生殖行為などと並んで、もっともすぐれた意味での生命活動に属するものであるのかもしれない。歌い踊るという行為のうちに、われわれは生きものとしての人間における、もっとも原始的で根源的な形での生命の迸りのようなものを認めることができる。

 「食べること」は「食料」という「他者」を「自己」の中に取り入れていくことであり、「眠ること」は「夢」や「夜」「闇」といった「他者」の活動に「自己」を解放していくことであり、また「生殖行為」は「異性」という「他者」と「自己」との交歓のことである。生命活動とはそれが原初的な営みであればあるほど、「自己」には決して統制しきれない「他者」との本源的な交流という意味合いが強くなる。生命活動とは本来、この「自己」と「他者」との交流という、どうなるかわからない不安定性に彩られているのだ。予め周到にデザインされたエンジニアリングとは全く異なるブリコラージュこそ、生命活動によく似ている。音楽という行為は、まさにこの生命活動の不安定性を、ブリコラージュ的な手捌きで不安定なままに表現しながら安定化していくという営みである。
 この音楽という行為の特徴を語るうえで、木村は「ノエシス」と「ノエマ」という術語を導入する。「ノエシス」とは、音楽というものを現在において次々と生み出していく行為的な側面のことを言う。一方の「ノエマ」とは、音楽なるものを意識によって表象する側面のことを言う。今まさに歌を歌うその「ノエシス」的な行為が、「歌を歌っているのだ」という「ノエマ」的な意識を生み出し、さらに「この後はこんなふうに歌おう」という「ノエマ」的な意識が「ノエシス」的な歌う行為に影響を与えていく。この無限の相互的交歓が、音楽である。幼子をあやす子守歌にも、夕食準備のまな板の上の鼻歌にも、熱狂的な武道館ライブにも、壮麗なオペラコンサートにも、あらゆる音楽にはこの「ノエシス」と「ノエマ」の相互的な交歓が繰り広げられている。
 さらに木村は合奏に関して次のように言う。

 たとえばピアノとヴァイオリンの理想的な二重奏が行われている場合を考えると、ピアニストはピアノのパートを、ヴァイオリニストはヴァイオリンのパートを分担して音を出すことはもちろんなのだが、不思議なことに二人とも、ピアノとヴァイオリンとの音が合わさって一つにまとまった音楽を、自分自身の演奏している音楽として聴いている。自分の指はピアノの鍵盤しか叩いていないのに、同時に聞こえてくるヴァイオリンの音まで、まるで自分が弾き出した音であるかのように意識している。
 しかしもちろんそれと同時に、各演奏者は自分自身の演奏するパートだけの音もノエマ的に意識している。ことに二人の呼吸が少しでも喰い違って合奏に微妙なずれが生じたときには、それぞれの意識はたちまち自分だけのパートに集中することになるだろう。理想的な合奏であってもこのようなずれは実際に絶えず起こっている。
 合奏において各奏者が自分の意識のノエマ面として全体の音楽を聴いている場合、それに相関するノエシス面はもはや各自の「実の」ノエシス面ではあり得ない。それはいわば各自の意識における「虚の」ノエシス面である。個人の意識の「内部」に、個別的な意識の主体性を止揚した集合的・間主体的で自律的なノエシスノエマ相関が成立していると言っていい。そしてそれと同時に、各演奏者の主体的で自律的な音楽創造の意志も必ずそこに働いている。この全体的意識と個別的意識の同時成立は、二つの別個の志向性が互いに素早く交代したり、並行して同時に進行したりしていると考えるよりも、むしろどこまでも一つの意識の一つの志向性、単一のノエシスノエマ相関が示す二つの局面だと考えるべきだろう。主体が自分のパートだけを意識したり間主体的に全体の音楽を意識したりするのは、そのつどの自由な観点の変更によるのである。

 二つの主体の合奏において成立する「「虚の」ノエシス」。どちらの主体が先導しているのでもなく、どちらの主体が従属しているのでもない。各演者の個別性を超えた「集合的・間主体的で自律的なノエシスノエマ相関」が演奏をリードしていくのである。「B’z」や「ゆず」のような統一的な名称によるデュオ・グループの命名とは、この「「虚」のノエシス」、あるいは個別性を超えた「集合的・間主体的で自律的なノエシスノエマ相関」を実体化する操作である。「虚」を「実」に変換する操作と言ってもよい。「虚」を「実」に変換することで「ノエシス」を「ノエマ」に転じる操作だと言ってもよい。ともかく「ノエシス」の持つ不安定性や流動性を、単一の名称という固定的な表象に転じるのが統一名による命名という操作である。一方、「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」という「&(and)」によって繋がれた名称は、「「虚」のノエシス」を「実」に変換し尽さず、どこかに「虚」を留め置こうとする名称であると言えるだろう。

第2章 YAH YAH YAH(2)

 この神話的な思考と歴史的な思考との差異。ドラマ「振り返れば奴がいる」の中で、石川の死を目前にしたこの若き医師2人を抱き締め、その差異を蕩かした大いなる「1」とは、神話的な「1」ではなかったか。一方が、亡き者に「なる」というそのときを迎えたと同時に、互いの「歴史」の正当性を主張し闘争によって一方を亡き者に「する」運動が終焉を迎えた。それぞれ1つずつ別々の「歴史」は、1つの「神話」へと転じようとしていた。

 「歴史」的な思考は、「石川と司馬」「コヨーテとオオヤマネコ」「西洋人とインディアン」というときの「と(and、&)」を許さない。どちらか一方が勝つか負けるかに強く動機づけられている。近代の「歴史」はまさに、勝者にとって整合的な物語に貫かれている。勝者の思考とは矛盾する「と(&、and)」を隔てた向こう側の敗者の思考は、何らかの「抑圧」や「締め出し」といった排除を被る宿命にある。だからこそ、石川は司馬を天真楼病院から締め出すことに文字通り命を懸けたのだ。しかし、司馬を病院から追放できることが決まったその直後、石川が司馬に対する「歴史」的な勝利を収めたまさにそのとき、悪化したスキルス性胃癌の影響で石川は吐血して倒れた。命を刻む「神話」的なときが訪れたのだ。極めて難しい石川の手術を、司馬は引き受けることに決める。だが、石川は了承しない。司馬に助けられるくらいなら死を選ぶと言う。その後、周囲の説得で司馬の助けを借りてでも生きることの必要性を実感し、石川は司馬の執刀を承諾した。石川の病室を司馬が訪れる。「俺ひとりの力じゃ、どうにもならん。俺はドクターとして、お前はクランケとして、スキルスと闘う。はっきり言う。今の症状じゃ、助かる可能性はゼロだ。 それを、俺が10パーセントまで引き上げる。お前は20パーセントまで上げてくれ。」その言葉を受け、石川は「よろしく」と司馬のもとへ右手を差し出す。「うまくいったらな」と右手で応じることを保留する司馬。「2」の心と「1」の心との間を、繊細な感性が揺れ動く。「神話」的なときの訪れを前に、人の心はたいていこういう繊細な揺らぎを見せる。司馬の執刀した手術は、成功。「石川と司馬」の差異はその差異のままに、神話的な時空に抱きかかえられ、2人はまるで双子だった頃の原初の記憶を確かめ合うかのように、笑顔で手を握り合う。

 多くのデュオ・ミュージシャンが、「風」「B’z」「ゆず」「スキマスイッチ」など、単一の名称によって、2人の差異を統一的なカプセルの中にしまう。この命名の操作は重要だ。この命名によって初めて、「2」という差異が矛盾することなく「1」に収まるからだ。「歴史」とは、この命名の操作によって始動する。「出雲」と「大和」とが同じ「日本(ひのもと)」という名称に収まることで、「日本」の歴史が始動したように。あるいはまた「男」と「女」とが同じ姓に収まることで、その家の歴史が始動するように。
 「チャゲ」と「飛鳥」とは、2人の差異を単一の名称に収めるという命名の操作をしなかった。いや、というよりも「チャゲ&飛鳥」という形で、「と(&、and)」という結合の起源をそのまま温存する名称を採用した。デビュー直前の1978年、静岡県掛川市つま恋で例年開催されていたヤマハポピュラーソングコンテストポプコン)の第16回本選会で、「チャゲ」と「飛鳥」は「チャゲ&飛鳥」として大きな舞台に立っていた。第15回ポプコンの福岡大会で、グランプリと最優秀歌唱賞とをそれぞれ獲得した「チャゲ」と「飛鳥」は開催側のヤマハスタッフから「チャゲと飛鳥」で一緒にやってみることを勧められる。ASKAはこの出来事を後にこんなふうに振り返る。「レコード・デビューということにものすごく憧れていて、それを果たすためにはいろんなことをやらなきゃいけないだろうとは思っていたんだよね。それで一緒にやらないかと言われてちょっとは考えたんだけど、もしふたりでやることで賞が獲れてレコードが出るんだったらやってみたいなと。いい方向に話がいくんなら、どんなことやってもいいやっていう意識だった。」

 Levi-Straussは、「野生の思考(1976)」の中で「ブリコラージュ(Bricolage)」という用語を、このように紹介する。

 原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。ブリコレbricolerという動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。ブリコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手元には他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の知的なブリコラージュ(器用仕事)である。

 Levi-Straussは、ブリコラージュを行う人ブリコルールと、エンジニア(科学者)とを対比させる。ブリコルールは、出来事から構造を作るが、エンジニア(科学者)は、構造から出来事を作る。たまたまそこにあった間に合わせの物という偶発的な出来事から出発して、徐々に構造を構成していくのがブリコルールであり、一方、原因―結果の因果的構造から出発して、その具体化という出来事を志向するのがエンジニアである。

 「もしふたりでやることで賞が獲れてレコードが出るんだったらやってみたいな」というASKAの先の言葉は、実にブリコラージュ的な言葉である。この言葉から伝わってくるのは、「こうでなければならない」「こうであるはずだ」という理論や理念、理想といった構造から出発するエンジニアや科学者のような独特の頑なさではない。「どうなるかわからないが、まあとりあえずやってみよう」というブリコルールの軽快な手捌きに通じている言葉である。しかし、このようなブリコラージュ的なグループ編成という出来事が「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」の特異性なのではない。そうではなく、このブリコラージュ的なグループ編成という出来事を、その名称が一切隠蔽していないということこそ、「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」らしさを特徴づける重要なポイントなのだ。

第2章 YAH YAH YAH(1)

必ず手に入れたいものは 誰にも知られたくない
百ある甘そうな話なら 一度は触れてみたいさ
勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい

掴んだ拳を使えずに 言葉を失くしてないかい
傷つけられたら牙をむけ 自分を失くさぬために
今から一緒に これから一緒に 殴りに行こうか

 
 “かの女”をめぐって、僕とそいつは同士であり、かつ敵であった。そいつの“かの女”に向けられた望みも、僕の“かの女”に向けられた望みも、互いに同じであることを知りながら、互いに決してそのことに触れることはなかった。そこに直接触れてしまえば、互いに同士のままではいられないことが僕たちは互いにどこかでわかっていたからだ。いや、今になって思えば、それだけではなかったのだろう。きっとそいつは自分自身の運命をどこかで既に悟っていたのかもしれない。
 僕とそいつは、ことあるごとに言い争った。遊び方、集まり方、行先、時間セッティング…。適当に場当たり的に間に合わせで行動しようとする僕と、用意周到に綿密に計画的に様々な状況を斟酌するそいつ。たびたび意見がぶつかり合い、ときに周囲の仲間も巻き込んだ。
 1993年3月。僕たちは中学校の卒業を控え、浮足立っていた。卒業式よりも高校よりも今日仲間と遊びに出かけることが生きることの全てだった。その仲間の中には、“かの女”もいた。僕たちは遊園地のジェットコースターの上で頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられながら、全員でCHAGEASKAの「YAH YAH YAH」を熱唱した。その赤い滑車の上で、僕とそいつと、そして“かの女”と、全てが強く突き出された拳のように一つになった。言葉と自分を失いながら、運動そのものになった。


 1993年3月24日水曜日。「白い巨塔」の次世代版とも評された「振り返れば奴がいる」。その最終話を放映するテレビ画面に僕の全感覚は総動員されていた。石黒賢演じる米国カンザス帰りの若き外科医石川玄と、織田裕二演じる冷酷無情な天才的外科医司馬江太郎。天真楼病院という大病院を舞台とした2人の男の差し向かいこそが、このドラマの極めて基本的な構造だ。正義/悪、情熱/冷血、人道/功利、利他/利己、公平/差別など、2人の男の対立軸や境界にこそ、このドラマのあらゆるエピソードが血肉を注ぎ込んできた。ところが、最終話に差し掛かり、事態が一変し始める。スキルス性の胃癌に侵された石川の瀕死に際し、司馬の中のそれまでずっと歪曲させてきた強度が再び直截に増大し始めた。「戻ってこい!石川!」事あるごとに対立し、実力伯仲の闘争を繰り広げてきた2人を隔てる障壁が融けていく。「2」が「1」になる瞬間。というよりも、「2」を抱き締め蕩かしていく、大いなる「1」の到来。
 闘争は常に「1」を志向している。2人が出遭って間もない頃、奇跡的に蘇生した患者の心電図モニターのスイッチを切り、患者を見殺しにした司馬。その司馬の医師としての品格を糾弾するための懲罰委員会で司馬の優勢に終わった結果を受け、外科部長の中川と石川とはこんなやり取りをする。「辞めてどうすんの?」「カンザスに戻ります。」「あ、そう…。」「ああいう結果になった以上、僕はこの病院には…。」懲罰委員会で司馬を免職に追い込めなかった石川は、自らこの病院を去ることによって決着を図ろうとする。石川か、司馬か。どちらか一者に統一することこそが、この2人の闘争を動機づける。
 石川と司馬の闘争を強く動機づけてきた、この「1」への志向性。しかし、石川の死を前に、最終話で石川と司馬に訪れた大いなる「1」は、どうやらそれまで2人の闘争を動機づけてきた「1」とは異なる「1」のように思える。どちらか一方を亡き者に「しよう」としていたときの「1」と、どちらか一方が亡き者に「なろう」としていたときの「1」との差異。

 Levi-Strauss(1991)は、アメリカ・インディアンのオオヤマネコとコヨーテを双子とみなす神話を引用した上で、次のように分析する。

コヨーテに対して恨みをもったオオヤマネコはコヨーテの鼻面と耳と尾を引っ張って伸ばした。仕返しにコヨーテはオオヤマネコの鼻面と耳と尾を押し縮めてしまった。だからイヌ科の動物とネコ科の動物はこんなにも似ていないのだ。昔は、あるいは正反対の方向に変えられる以前の束の間の間は、彼らの身体は似ていたのであろう。いずれにしても、同一性は変更可能なあるいは一時的な状態にすぎず、永続することはありえないのである。

 また、この著書に関するインタビューでも、Levi-Straussはこのように述べている。

双子は同じようであるはずなのに、同じであることができない。かつては同じであったかもしれないが対立が避けられない。生まれるや否や彼らは分離してしまう。この双子の観念すなわち、同一者が他者を生み出すという観念はアメリカ・インディアンの思想の深い動力源になっているのです。

 この「双子であることの不可能性」とは、コヨーテとオオヤマネコとの差異を原初的な統一性へと還元し尽くすことのできない不可能性の謂いである。前は双子だったが、今は違う。前は同じだったのだから、違っていていいのだという境位。差異を差異としてそのままに抱き締める器と言ってもよいだろうか。アメリカ・インディアンたちの思考は、自分たちと西洋人たちとの差異を決して統一性へと還元しようとはしなかった。それは、コヨーテとオオヤマネコとの間に、より始原的で根源的な同一性を直観するからこそ、差異を差異としてそのままに認めることができる。また同じように、インディアンと西洋人との間にも、その始原的・根源的な同一性を直観することで、両者の差異を差異のままに包摂していく知恵が、インディアンの思考には内在する。Levi-Straussは、この始原的・根源的な同一性への直観に基づく思考を「神話」的な思考と呼んだ。一方、やがてアメリカ・インディアンたちを圧倒的な武力によって差異を排除し統一的に支配しようとした西洋人たちの思考を「歴史」的な思考と呼んで区別している。