とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第3章 君の好きだった歌(5)

  フランチェスコが目指したこと。それはキリストの反復である。キリストのように一切の所有や形骸から解き放たれ、生身の人間として再生することこそ、フランチェスコの回心という出来事である。キリスト教が普遍宗教としてヨーロッパという埒を越える上で、この素っ裸で城壁のアーチを越えたことに象徴されるフランチェスコと、フランチェスコによるキリストの反復というモチーフの貢献は絶大だ。
  後にフランシスコ修道会の極めて重要な会則の起源となる、フランチェスコ自身が記した「原始会則」は次のような宣言から始まる。「これは兄弟フランチェスコ教皇聖下に認下され確認さるべく聖下に提上せるイエス・キリストの福音による生である。」フランチェスコは、修道会での生活がイエス・キリストの生や経験の反復であることに徹底的にこだわる。ここでのキリストの生や経験とは端的に言ってしまえば「死と再生」である。ゴルゴダの丘で死にオリーブ山で復活をした、あの生と経験である。肉への執着が死に、霊性が復活するというあの出来事である。キリストを訪れた、この生が、この経験が、この出来事が、いかに遍く人々の内にも反復し得るのか、この問いこそが「小さき兄弟会」から始動したキリストの一回性の生や体験や出来事を普遍化するというフランチェスコの挑戦を強く動機づけた。
  キリスト教世界宗教化する上で、つまりキリストという一者の生が多の者(他の者)の生として普遍化するというパラドキシカルな挑戦を行う上で、Deleuzeが言うところの二つの「反復」の区別は重要だ。Deleuzeはこの区別について、次のように述べる。


  リズム理論は、わたしたちに、反復の二つのタイプを直接に区別するよう促す。〈韻律 〔拍子、構成単位〕-反復は、時間の規則的な分割であり、同一的な諸要素の等時的な回帰である。しかし、一定の持続は、〈強さアクセント〉によって規定されるのでなければ、また諸強度によって支配されるのでなければ、存在しない。もろもろのアクセントは等間隔で再生されると言ってしまうなら、アクセントの機能について誤解することになるだろう。逆に、強さのつまり強度的な諸価値〔アクセント〕は、韻律的に等しいいくつかの持続つまり空間のなかに、いくつかの不等性、通約不可能性を創造するように作用するのである。それらの価値は、ひとつのポリリズムをつねに示す複数の特別な点〔特異点〕、つまり特権的な瞬間を創造する。そこでもまた、不等なものが、もっとも定立的なものである。韻律は、ひとつのリズムの、そして諸リズムの関係=比の外被にすぎない。不等性の点の、屈曲の点の、リズム的出来事の繰り返しは、同質的な通常の要素の再生よりもずっと深いものである。そうであればこそ、わたしたちは、いたるところで、〈韻律-反復〉と、〈リズム-反復〉を、前者は後者の抽象的な仮象あるいは効果にすぎないがゆえに区別しなければならないのである。(《同じ》ものの反復としての)物質的で裸の反復が出現するのは、つぎのような意味においてである。すなわち、それとは別の〔着衣の〕反復が、その裸の反復を構成しながらその裸の反復のなかでおのれを偽装し、かつおのれを偽装することによっておのれ自身をも構成するという意味においてである。自然においてさえ、もろもろの等時的な自転運動は、もっと深いひとつの運動の仮象にすぎず、もろもろの公転的な循環は、抽象的なものにすぎない。だが、それら公転的な循環は、関係のなかに置かれると、進化の諸循環を、すなわち可変的な曲率をもった螺線を、しかも左右非対称のアスペクトをもつ軌道をとる螺線を開示する。否定的なものと混じり合っていないそのような開口においてこそ、そしてつねにこの開口において、被造物たちは、生きる能力と死ぬ能力を受けとると同時に、自分たちの反復を織りあげているのである。


  Deleuzeの言っていることをここでの文脈にやや強引に結びつけてしまえば、拍子(mesure)の反復(裸の反復)と、リズム(rythme)の反復(着衣の反復)との区別は、フランチェスコによるキリストの反復と、修道会の修道士たちや宣教師が布教する世界各地の信者たちによるキリストの反復との区別に、ある面で似ている。あのキリストの「死と再生」の出来事を、フランチェスコは文字通り〈裸で〉反復をし、そのフランチェスコの反復を、さらに修道士たちや世界中の信者たちが〈着衣で〉反復をするのだ。霊となったフランチェスコが「拍子」をとり、肉体を持つ修道士たちや世界中の信者たちが実に多様な「リズム」で舞い踊る。これこそが、キリスト教世界宗教化の端的なメタフォリカル・イメージだ。このようにしてキリスト教はキリストという一者の生が多の者(他の者)の生として普遍化するという大きな矛盾を乗り越えた。むろん「拍子」をとったのはフランチェスコだけではない。ドミニコが、イグナチオ・デ・ロヨラが、ヨハネ・ボスコが、各々の所作でキリストの出来事という「拍子」を反復し、世界各地の信者たちがそれに合わせて「リズム」を刻んだ。重要な点は、世界各地で実に多様な差異を含み込みながらも、あのキリストを訪れた出来事の反復を留めておくこと。つまり、キリスト教の普遍化において、元を辿れば必ずキリストという単一者の奇跡的な反復に回帰し得ることこそが、極めて重要な大前提なのである。だからこそ典礼論争という切実な問題が生じる。中国の典礼を認めてしまえば、それはもはやキリストのあの出来事の反復という「拍子」がとれなくなってしまうからだ。そこでキリスト教はさらにこの後、福音主義を武器に、さらなる世界への普遍化を図ることになる。