とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第1章 SAY YES (3)

  ドラマがドラマとして成立するには言うまでもなく3つの時間的要素が必要である。「過去」、「現在」、そして「未来」。また、生成変化するものを「過去」へと締め出そうとする運動と、生成変化するものを「過去」から取り戻そうとする運動との闘いの場こそ、「現在」である。この「現在」の真剣勝負の中で、決して「過去」と同じものの反復ではない、絶対的な固有性を獲得できたとき、そこに「未来」が拓かれる。これがドラマである。
  99回のお見合いに失敗してきた「過去」を持つ星野達郎、許婚の死という衝撃的な傷を負った「過去」を持つ矢吹薫、この両者の立ち合いの場こそ、「現在」である。「また人を好きになって とっても好きになって それでまた失うの こわいの こわいんです ねえ…こわいの」星野達郎の深い思いに触れた矢吹薫は、生成変化するものの破壊力に怯えている。生成変化するものの破壊力を「過去」へと締め出そうとする力と、生成変化するものの創造力を「過去」から取り戻そうとする力とが拮抗する。この二人の差し向かいの「現在」の場に、徐々に二人だけの唯一つの「未来」が立ち上がってくる。これこそまさに、ドラマをドラマたらしめているものの本質である。
  インターハイ出場の経歴を持つほど、剣道に打ち込んでいたASKAの身体には、「剣道」が刻み込まれている。「剣道」というまさに差し向かいの場には、「現在」が満ち溢れている。ASKA散文詩「かけひき」には、この「現在」の充溢がありありと感じられる。散文詩の最後をASKAはこう締めくくる。「この瞳で嘘をついて」と。この「嘘」とは何か。それは、三回目の沈み込みが、その前の二回の沈み込みという「過去」へと回収されようとする、つまり前の二回と同じように引き潮に乗っている「振り」をするということであろう。この「嘘」や「振り」の身体的な所作の中に、「エネルギーの化身」を潜ませ、津波のように一気に「相手の胴を斬る」のが「剣道」を通してASKAの身体に刻み込まれたドラマ性である。
  「101回目のプロポーズ」という実にドラマらしいドラマのヒットを契機に、まさに「エネルギーの化身」とも言えるポピュリズムの巨大津波の体現者の一人として祭り上げられることになったASKA。「剣道」を仲立ちに培われたASKAの身体性の意味を考える上で、ポピュリズムのこの津波が、1991年というときにおとずれたことの意味を、社会学的な視点から整理しておくことは重要である。
  大澤真幸(2008)によれば、1990年代前半という時代は、1970年代後期から始まった「虚構の時代」の末期であると位置づけられる。1995年の一連のオウム真理教事件や1997年の酒鬼薔薇事件が、「虚構の時代」の終焉を告げる画期的な出来事であるとし、「現実」を整合的に意味づける媒介者としての「虚構(フィクション)」がもはや人々の心にとって効力を失ったことを示す象徴的な出来事であると大澤は分析する。「101回目のプロポーズ」が、「SAY YES」が、大衆化したときは、まさにこの「虚構の時代」の最終段階に当たる。大澤は見田宗介(2006)による「戦後」日本の「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」という時代区分に関する議論を引き継ぎながら、さらにポスト「虚構の時代」を「不可能性の時代」とし、「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という3つの時代区分を提起した。大澤は、ディズニーランドや村上春樹に理想の虚構化を見る。つまり、終戦間もなくからのアメリカ主義への帰依に始まった理想が、所詮は現実化し得ない虚構に過ぎないことに人々が気づき、現実から隔絶された時空に、虚構と知りながら敢えて虚構としてその場を構築しようとする時代こそ、「虚構の時代」の特徴だとした。理想は未来での現実化の期待を前提にしているが、虚構はもはや現実化とは関係がない。
  このことは、「101回目のプロポーズ」というドラマの中にも見て取れる。このドラマの中で、星野達郎は42歳という年齢設定である。達郎はまさに終戦直後に生を受け「理想の時代」の真っ只中で青春を謳歌してきた男である。理想を追い求め勤勉に実直に会社組織に奉仕し続けてきた万年次長のサラリーマン星野達郎は、理想追及とその挫折を体験した男の象徴である。仕事でもプライベートでも、もはや理想の成就(現実化)は潰えたことに達郎は深く絶望しているところからこのドラマは始まる。理想の挫折。挫折してしまったが、それでもそこに穿たれた「穴」や「傷」を埋め合わせたい。その埋め合わせのために持ち込まれるのが虚構である。こうして、人々の中の欠如を埋め合わせるために、あるいは生成変化するものを締め出すために、持ち込まれる反現実が理想から虚構に取って代わる時代が「虚構の時代」である。
  このドラマが既に時代は「虚構の時代」の真っただ中にあり、虚構の影響力の強さを暗示している点がいくつもある。例えば、矢吹薫の前に突如現れた、長谷川初範扮する藤井克巳という登場人物はまさに虚構の象徴だ。藤井という男は、達郎の「僕は死にません!」という100回目のプロポーズが成就しかけたその時に、3年前に死亡した薫の婚約者真壁芳之の生き写しのような姿で薫の前に現れる。次第次第に藤井に惹かれていく薫の様子を見かねて、薫の友人石毛桃子は窘める。「目を覚ましなさい!あんたは真壁さんの幻を見てるのよ!」薫はもちろん知っている。藤井が元婚約者の真壁とは別人であることを。つまり、真壁という理想の存在は、もう既に現実化し得ないことなど薫は百も承知なのだ。それでも目の前に現れた藤井という虚構(幻)の魅惑に薫は打ち克つことができない。まさに「虚構の時代」の人々が共有する心性はこの薫の虚構への囚われにこそある。「どうせ偽物(戯れ、気慰め)に過ぎないのはわかっているが、それでも敢えてそれをする」という大澤が「アイロニカルな没入」と呼んだ状況へと誘い込むのは、薫も囚われたこの虚構が持つ独特の魅惑である。
  また、江口洋介が演じる、本来は恋愛適齢期であるはずの達郎の弟星野純平(達郎との年齢差が20歳!)が、「ハンサム」という理想的な容姿を持ちながらアニメ同好会の部長という「オタク」性を帯びているという設定にも、「虚構の時代」らしさをほのめかしている。大澤によれば、「オタク」こそ「虚構の時代」に象徴的な現象である。人生や実社会における理想の追求という意味や目的とは全くつながらないカタログ的情報の蒐集へと内閉することこそが「オタク」なる現象であり、こうした「オタク」と呼称される星野純平に象徴される人々がアニメという虚構に熱狂的に没入する様子がドラマの中に設定として埋め込まれていることは、本当のアクチュアルな恋愛の世代は、「虚構の時代」の精神にすっかり埋め込まれていることをほのめかしていると考えられるだろう。
  さらに言えば、こうした「オタク」特有の「アイロニカルな没入」という現象は、星野達郎のお見合いが既に99回を数えるというカタログ的な複製にも似た、終わりなき反復のエピソードからこのドラマが始まっていることと、意味的にパラレルである。「どうせ結婚できないのはわかっているが、それでも見合いをする」とまで達郎が思っていたかどうかは定かではないが、少なくとも薫に出逢うまでの99回のお見合いの全てが、結婚式当日に花嫁に逃げられた1回目のお見合いの反復であったことは間違いない。2回目から99回目までのお見合いの内容は、ドラマの中で全く表現されないからだ。本来、お見合いとは、一期一会の具体的、個別的な体験であるはずである。にもかかわらず、この実に空疎な反復体験の強調そのものが、アイロニカルな没入という虚構性を象徴している。
  しかしこのドラマは、それだけでは終わらない。むしろ最終的には「虚構の時代」にありながら、理想の挫折という「傷」や「穴」を虚構によって埋め合わせてはいけないという強いメッセージを表現しようとしているのが特筆すべき点である。虚構によってではなく、もう一度理想によって埋め合わせようとするのが、星野達郎という男である。生死を賭けてトラックの前に飛び出し「僕は死にません!」と叫ぶ達郎の姿に、雨の降りしきる神社の境内でお百度参りにひたむきにいそしむ達郎の姿に、理想を追い求め腹を括って挑戦し続ける昭和男児の面影が重なる。理想の回帰、そして成就。「虚構の時代」にありながら、まるで最後の足掻きのように「理想の時代」の残滓を燃え上がらせようとする試みが、「101回目のプロポーズ」というドラマの大きな主題なのである。