とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第2章 YAH YAH YAH(2)

 この神話的な思考と歴史的な思考との差異。ドラマ「振り返れば奴がいる」の中で、石川の死を目前にしたこの若き医師2人を抱き締め、その差異を蕩かした大いなる「1」とは、神話的な「1」ではなかったか。一方が、亡き者に「なる」というそのときを迎えたと同時に、互いの「歴史」の正当性を主張し闘争によって一方を亡き者に「する」運動が終焉を迎えた。それぞれ1つずつ別々の「歴史」は、1つの「神話」へと転じようとしていた。

 「歴史」的な思考は、「石川と司馬」「コヨーテとオオヤマネコ」「西洋人とインディアン」というときの「と(and、&)」を許さない。どちらか一方が勝つか負けるかに強く動機づけられている。近代の「歴史」はまさに、勝者にとって整合的な物語に貫かれている。勝者の思考とは矛盾する「と(&、and)」を隔てた向こう側の敗者の思考は、何らかの「抑圧」や「締め出し」といった排除を被る宿命にある。だからこそ、石川は司馬を天真楼病院から締め出すことに文字通り命を懸けたのだ。しかし、司馬を病院から追放できることが決まったその直後、石川が司馬に対する「歴史」的な勝利を収めたまさにそのとき、悪化したスキルス性胃癌の影響で石川は吐血して倒れた。命を刻む「神話」的なときが訪れたのだ。極めて難しい石川の手術を、司馬は引き受けることに決める。だが、石川は了承しない。司馬に助けられるくらいなら死を選ぶと言う。その後、周囲の説得で司馬の助けを借りてでも生きることの必要性を実感し、石川は司馬の執刀を承諾した。石川の病室を司馬が訪れる。「俺ひとりの力じゃ、どうにもならん。俺はドクターとして、お前はクランケとして、スキルスと闘う。はっきり言う。今の症状じゃ、助かる可能性はゼロだ。 それを、俺が10パーセントまで引き上げる。お前は20パーセントまで上げてくれ。」その言葉を受け、石川は「よろしく」と司馬のもとへ右手を差し出す。「うまくいったらな」と右手で応じることを保留する司馬。「2」の心と「1」の心との間を、繊細な感性が揺れ動く。「神話」的なときの訪れを前に、人の心はたいていこういう繊細な揺らぎを見せる。司馬の執刀した手術は、成功。「石川と司馬」の差異はその差異のままに、神話的な時空に抱きかかえられ、2人はまるで双子だった頃の原初の記憶を確かめ合うかのように、笑顔で手を握り合う。

 多くのデュオ・ミュージシャンが、「風」「B’z」「ゆず」「スキマスイッチ」など、単一の名称によって、2人の差異を統一的なカプセルの中にしまう。この命名の操作は重要だ。この命名によって初めて、「2」という差異が矛盾することなく「1」に収まるからだ。「歴史」とは、この命名の操作によって始動する。「出雲」と「大和」とが同じ「日本(ひのもと)」という名称に収まることで、「日本」の歴史が始動したように。あるいはまた「男」と「女」とが同じ姓に収まることで、その家の歴史が始動するように。
 「チャゲ」と「飛鳥」とは、2人の差異を単一の名称に収めるという命名の操作をしなかった。いや、というよりも「チャゲ&飛鳥」という形で、「と(&、and)」という結合の起源をそのまま温存する名称を採用した。デビュー直前の1978年、静岡県掛川市つま恋で例年開催されていたヤマハポピュラーソングコンテストポプコン)の第16回本選会で、「チャゲ」と「飛鳥」は「チャゲ&飛鳥」として大きな舞台に立っていた。第15回ポプコンの福岡大会で、グランプリと最優秀歌唱賞とをそれぞれ獲得した「チャゲ」と「飛鳥」は開催側のヤマハスタッフから「チャゲと飛鳥」で一緒にやってみることを勧められる。ASKAはこの出来事を後にこんなふうに振り返る。「レコード・デビューということにものすごく憧れていて、それを果たすためにはいろんなことをやらなきゃいけないだろうとは思っていたんだよね。それで一緒にやらないかと言われてちょっとは考えたんだけど、もしふたりでやることで賞が獲れてレコードが出るんだったらやってみたいなと。いい方向に話がいくんなら、どんなことやってもいいやっていう意識だった。」

 Levi-Straussは、「野生の思考(1976)」の中で「ブリコラージュ(Bricolage)」という用語を、このように紹介する。

 原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。ブリコレbricolerという動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。ブリコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手元には他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の知的なブリコラージュ(器用仕事)である。

 Levi-Straussは、ブリコラージュを行う人ブリコルールと、エンジニア(科学者)とを対比させる。ブリコルールは、出来事から構造を作るが、エンジニア(科学者)は、構造から出来事を作る。たまたまそこにあった間に合わせの物という偶発的な出来事から出発して、徐々に構造を構成していくのがブリコルールであり、一方、原因―結果の因果的構造から出発して、その具体化という出来事を志向するのがエンジニアである。

 「もしふたりでやることで賞が獲れてレコードが出るんだったらやってみたいな」というASKAの先の言葉は、実にブリコラージュ的な言葉である。この言葉から伝わってくるのは、「こうでなければならない」「こうであるはずだ」という理論や理念、理想といった構造から出発するエンジニアや科学者のような独特の頑なさではない。「どうなるかわからないが、まあとりあえずやってみよう」というブリコルールの軽快な手捌きに通じている言葉である。しかし、このようなブリコラージュ的なグループ編成という出来事が「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」の特異性なのではない。そうではなく、このブリコラージュ的なグループ編成という出来事を、その名称が一切隠蔽していないということこそ、「チャゲ&飛鳥CHAGE and ASKA)」らしさを特徴づける重要なポイントなのだ。