とりのうた

listening and writing the song of the "bird"

第2章 YAH YAH YAH(1)

必ず手に入れたいものは 誰にも知られたくない
百ある甘そうな話なら 一度は触れてみたいさ
勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい

掴んだ拳を使えずに 言葉を失くしてないかい
傷つけられたら牙をむけ 自分を失くさぬために
今から一緒に これから一緒に 殴りに行こうか

 
 “かの女”をめぐって、僕とそいつは同士であり、かつ敵であった。そいつの“かの女”に向けられた望みも、僕の“かの女”に向けられた望みも、互いに同じであることを知りながら、互いに決してそのことに触れることはなかった。そこに直接触れてしまえば、互いに同士のままではいられないことが僕たちは互いにどこかでわかっていたからだ。いや、今になって思えば、それだけではなかったのだろう。きっとそいつは自分自身の運命をどこかで既に悟っていたのかもしれない。
 僕とそいつは、ことあるごとに言い争った。遊び方、集まり方、行先、時間セッティング…。適当に場当たり的に間に合わせで行動しようとする僕と、用意周到に綿密に計画的に様々な状況を斟酌するそいつ。たびたび意見がぶつかり合い、ときに周囲の仲間も巻き込んだ。
 1993年3月。僕たちは中学校の卒業を控え、浮足立っていた。卒業式よりも高校よりも今日仲間と遊びに出かけることが生きることの全てだった。その仲間の中には、“かの女”もいた。僕たちは遊園地のジェットコースターの上で頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられながら、全員でCHAGEASKAの「YAH YAH YAH」を熱唱した。その赤い滑車の上で、僕とそいつと、そして“かの女”と、全てが強く突き出された拳のように一つになった。言葉と自分を失いながら、運動そのものになった。


 1993年3月24日水曜日。「白い巨塔」の次世代版とも評された「振り返れば奴がいる」。その最終話を放映するテレビ画面に僕の全感覚は総動員されていた。石黒賢演じる米国カンザス帰りの若き外科医石川玄と、織田裕二演じる冷酷無情な天才的外科医司馬江太郎。天真楼病院という大病院を舞台とした2人の男の差し向かいこそが、このドラマの極めて基本的な構造だ。正義/悪、情熱/冷血、人道/功利、利他/利己、公平/差別など、2人の男の対立軸や境界にこそ、このドラマのあらゆるエピソードが血肉を注ぎ込んできた。ところが、最終話に差し掛かり、事態が一変し始める。スキルス性の胃癌に侵された石川の瀕死に際し、司馬の中のそれまでずっと歪曲させてきた強度が再び直截に増大し始めた。「戻ってこい!石川!」事あるごとに対立し、実力伯仲の闘争を繰り広げてきた2人を隔てる障壁が融けていく。「2」が「1」になる瞬間。というよりも、「2」を抱き締め蕩かしていく、大いなる「1」の到来。
 闘争は常に「1」を志向している。2人が出遭って間もない頃、奇跡的に蘇生した患者の心電図モニターのスイッチを切り、患者を見殺しにした司馬。その司馬の医師としての品格を糾弾するための懲罰委員会で司馬の優勢に終わった結果を受け、外科部長の中川と石川とはこんなやり取りをする。「辞めてどうすんの?」「カンザスに戻ります。」「あ、そう…。」「ああいう結果になった以上、僕はこの病院には…。」懲罰委員会で司馬を免職に追い込めなかった石川は、自らこの病院を去ることによって決着を図ろうとする。石川か、司馬か。どちらか一者に統一することこそが、この2人の闘争を動機づける。
 石川と司馬の闘争を強く動機づけてきた、この「1」への志向性。しかし、石川の死を前に、最終話で石川と司馬に訪れた大いなる「1」は、どうやらそれまで2人の闘争を動機づけてきた「1」とは異なる「1」のように思える。どちらか一方を亡き者に「しよう」としていたときの「1」と、どちらか一方が亡き者に「なろう」としていたときの「1」との差異。

 Levi-Strauss(1991)は、アメリカ・インディアンのオオヤマネコとコヨーテを双子とみなす神話を引用した上で、次のように分析する。

コヨーテに対して恨みをもったオオヤマネコはコヨーテの鼻面と耳と尾を引っ張って伸ばした。仕返しにコヨーテはオオヤマネコの鼻面と耳と尾を押し縮めてしまった。だからイヌ科の動物とネコ科の動物はこんなにも似ていないのだ。昔は、あるいは正反対の方向に変えられる以前の束の間の間は、彼らの身体は似ていたのであろう。いずれにしても、同一性は変更可能なあるいは一時的な状態にすぎず、永続することはありえないのである。

 また、この著書に関するインタビューでも、Levi-Straussはこのように述べている。

双子は同じようであるはずなのに、同じであることができない。かつては同じであったかもしれないが対立が避けられない。生まれるや否や彼らは分離してしまう。この双子の観念すなわち、同一者が他者を生み出すという観念はアメリカ・インディアンの思想の深い動力源になっているのです。

 この「双子であることの不可能性」とは、コヨーテとオオヤマネコとの差異を原初的な統一性へと還元し尽くすことのできない不可能性の謂いである。前は双子だったが、今は違う。前は同じだったのだから、違っていていいのだという境位。差異を差異としてそのままに抱き締める器と言ってもよいだろうか。アメリカ・インディアンたちの思考は、自分たちと西洋人たちとの差異を決して統一性へと還元しようとはしなかった。それは、コヨーテとオオヤマネコとの間に、より始原的で根源的な同一性を直観するからこそ、差異を差異としてそのままに認めることができる。また同じように、インディアンと西洋人との間にも、その始原的・根源的な同一性を直観することで、両者の差異を差異のままに包摂していく知恵が、インディアンの思考には内在する。Levi-Straussは、この始原的・根源的な同一性への直観に基づく思考を「神話」的な思考と呼んだ。一方、やがてアメリカ・インディアンたちを圧倒的な武力によって差異を排除し統一的に支配しようとした西洋人たちの思考を「歴史」的な思考と呼んで区別している。